櫂宝は李下に咲く
「お祖父様、私決めました」
彼をお祖父様と呼ぶことが出来るのは彩雲国広しと言えども彼女だけだと聞いていた人々は思ったのだった。
櫂瑜。
前主上の御世にこの人ありと謳われた大人物である。
そして今もまだ80を過ぎてなお名官吏としても、男としても、現役であるという大人物でもある。
歳を取る度にいい男になる彼には養い子の孫娘がいる。
櫂宝と言われる程の大事に育てている噂は貴陽にまでも届いていた。
「櫂瑜殿〜〜姫を主上の嫁御にしてくだされ〜〜」
泣きついてきた羽羽に黒櫂瑜はにっこりと微笑んだ。
「そうですねえ。私はもちろんあの子は主上の后にも相応しい素晴らしい子だと知ってますが」
「ならば頼みまする〜〜っっ」
泣きつかれてしまった櫂瑜はこれぞ男の色気というような少し困った微笑を零した。
「私は頷けませんね。私は誰よりもあの子が幸せになって欲しいと思いますから」
羽殿、お力になれずすいませんねと言われてはそれでも、と強くは言えない、言わせないのが櫂瑜の魅力であると言えよう。
「〜〜主上の嫁御候補がまた一人減ってしもうた〜〜」
転げるように飛び出して行った後姿に此処は賑やかですねと最愛の孫娘の作った羊羹に手を伸ばしたのだった。
は軒から降りると大豪邸の前に立っていた。
門番は不審そうな表情をしたがそこは名門の邸宅の正面門を任された者、美人であり立ち居振る舞いも楚々とした彼女に至極まともに接したのだった。
「また、あの人は〜〜っ」
逃げたなともぬけの殻と化した室を見て溜息を吐いた。
部屋を出ようとしてふわりと何かが香る。
「絳攸っ!!」
「なっ・・・・!!」
腕の中に飛び込んだ人物に驚いて口を開け閉めするが出るのは空気のみで言葉が発することが出来ない。
「まあ、それは金魚の物真似?とっても上手ね」
にっこりと笑った彼女こそ、羽羽が主上にと望んだ姫。
巷では櫂宝と言われる少女だった。
「ななな、なんで此処にっ!」
いるんだという言葉にはにこりと微笑んだ。
「だって絳攸ってば私の事攫いに来てくれないから・・・私が来たのだけど、駄目だった?」
英姫様みたいに攫って欲しかったと口唇をツンと尖らす様はとても愛らしい。
楸瑛なら口付けるのだろうなと不埒なことを考えてしまい頬に熱が上がってしまう。
いや、俺はそんなことしたいなど思ってないぞっ!!
華奢な身体も単に支えているだけであってと言い訳を誰にするわけでもなく考えていたらがとんでもないことを言い出した。
「ねえ、黎深様はいらっしゃらないの?お手紙を出したのだけど」
「は・・・ああ、出かけられたようだ。って黎深様には来る事を言ったのかっ!?」
「ええ、勿論。私だって礼儀は弁えてるもの。邸宅にこれからお世話になるのだから最初によろしいかどうかお伺いを立てるものでしょ?」
「そうだな・・・ってこれから世話になる!?」
絳攸の言葉には綺麗な微笑を向けて頷いた。
「私、絳攸の側にいたいの」
にっこり。
綺麗な綺麗な微笑みに言葉を失った絳攸は暫く後に回復しその日から邸宅へは帰らなくなってしまったのだった。
「全く・・・姫の何処が嫌なんだい?」
呆れたような言葉で問われて直ぐには返答できなかった。
「嫌・・・ではないとは思うんだが・・・」
その言葉に楸瑛は些か心外だと目を見張って見せた。
「ウチに逃げ出してくる位だから嫌ってるのかと思ったよ。なんとも勿体無いことだよ、絳攸。櫂宝と言えば文官、武官の殆どが憧れてる」
才媛で美人で心根も良い、まさに理想と言われている姫君だよと言われて確かにと絳攸も頷いた。
「頭も悪くないし可愛いとも思うぞ。性格も良い・・・」
「噂どおりの姫君ならなんで君は逃げるんだい?」
「う・・・なんで・・・と言われても」
言葉に詰まった絳攸を他所に家人から来客を告げられて楸瑛は今度は本当に瞠目した。
「絳攸殿、私の孫に何か落ち度がありましたらはっきりと本人に言ってください」
藍邸まで押しかけてきた客人とは櫂瑜だった。
最初は傍観の構えを崩さなかった彼だが流石に半年も自邸に帰らない絳攸に本心を聞こうと思ったらしい。
「いえ、その・・・落ち度など・・・」
「では何故貴方は我が孫を振り回すのですか」
きっぱりと言われて驚く。
どちらかと言えば振り回されているのは自分のほうだと思ったのだが。
「あの子は私の本当の孫ではありません。けれど同じように可愛がって育てました。主上の妃にも相応しい自信はあります」
「はい、素晴らしい女人です」
きっぱりと返事をした絳攸に櫂瑜もやや口調を和らげた。
「けれどあの子の幸せはあの子に選ばせるつもりでしたしこれからもそのつもりです」
あの子は貴方を選びましたと淡々と告げられて絳攸は答えるべきか迷った挙句ようやく口を開いた。
「櫂瑜殿、私は黎深様に拾われました」
「知っております」
真っ直ぐな眼差しを絳攸は受け止めて返す。
「紅姓ではない私ですがそれでも貴方は宜しいのですか?」
何に、迷っていたのか自覚した絳攸は櫂瑜に問うた。
「それは私の孫にお聞きください」
にこりと笑った眼差しにはそんなことは聞くまでも無いですよと書かれていて絳攸はゆっくりと息を吐いたのだった。
久しぶりに帰った邸宅に彼女は居た。
「お帰りなさい、絳攸」
にこりと笑う姿に告げた。
「俺は紅姓じゃないぞ」
「知ってるわよ?」
あっさりと返された言葉に言葉を重ねる。
「なんで俺なんだ?」
ずっと不思議だった。
断った縁談の数々を聞く限りでは何故自分がと思わずにいられない。
「絳攸が好きだからに決まってるじゃない」
「そう、なのか?」
何を今更と言われてもまさか、と思っていたが気のせいだと思ってもいたのだ。
彼女が自分に飽きて他の誰かを選んでも良いように。
「初めて会った時から変わってないわ」
頬をうっすらと染めて言われた言葉を段々実感すれば彼女の行動を理解できてくる。
「・・・その、俺も好き・・・なんだが」
どうすればいいのだろうかと情けないことに呟いてしまった。
「まずは私に口付けて。それから黎深様と百合様とお祖父様にご挨拶に行きましょう?」
差し出された薄桃色の口唇にそっと口付ければ愛しさとかが躊躇いの膜を払ってはっきりと現れた。
「絳攸、私は絳攸が好きよ」
迷子になる所もと笑いながら手を引くに絳攸は自らが彩雲国一の至宝を手に入れたのだと悟った。
至宝の名は櫂。
彼女はこの後、李絳攸の妻として後世に名を残すことになるのだがその仲の睦まじさまでは語られてはいない事である。