今、自分がやらねばならないこと。
やりたいことの為に必要なことを。
出来ることから一歩ずつ。
前を向いて歩こうと思ったのは周りの人への憧れから。
「ちゃん、桜の間にお料理をお願いね」
「はーい」
慌しい厨房で一人大鍋を手早く振っているのは一人の少女だった。
が義父鳳珠に勉強の合間にと頼んで働かせて貰っているのは彼女自身望むことが報われないかもしれないと思うから。
諦める事など出来ないから勉強に掛かるお金、生活するくらいのお金はしっかり返したいと思ったから。
鳳珠は返す必要などないと言ってくれていたがにとってのけじめだった。
それこそが我侭を言う自分の精一杯、今できること。
勉強もこういう活用の仕方があったのだと働き出して思わずにいられなかった。
趣味として吹いている笛は座敷の余興として喜ばれたし菜は何故だか一流だと褒められて個人で働かないかと引き抜きの声もある。
茶州で全商連お墨付きを貰えたのが幸運だった。
算盤をパチパチと弾いていた日々を思い出す。
大抵は暗算で済んだが。
柴凛さんや柴彰さんは元気だろうか。
『いつか・・・いえ、続きはまた逢った時に。必ず逢えますよ』
そう言われた日々を思い出し懐かしく思う。
が働いているのは紫州貴陽でも有名な場所。
姮娥楼という老舗妓楼であった。
貴陽花街でも随一であるこの店は全商連のお得意様でもあった。
「ちゃん、ちょいと仕事が終わったらこっちで休んでいかないかい?」
背中に掛けられた綺麗な声に振り返る。
「ありがとうございます、胡蝶さん。今日はお早いですね。この仕事が終わったらお言葉に甘えさせて貰います」
の目の前にいるのは姮娥楼一の名妓胡蝶。
絶世の美女であり美貌、知性、教養、技芸も極上。
そして外面の美しさもさることながら内面の輝きがが憧れる理由である。
「胡蝶さんは私が出会った人の中で二番目に綺麗です」
正直に言った時周りにいた男達はなんてことを言うんだと目を剥いた。
胡蝶より美女がどこにいる、とも。
「いえ、一番美しい人は男の人なんです」
とが言った時には居並ぶ男達の顎がガクンと落ちそうな程だった。
「ふふふ、その人はちゃんの大事な人なのかい?」
「はい」
「それじゃあ仕方ないね」
コロコロと笑ってくれた姿にはますます胡蝶のことを好きになった。
胡蝶と休憩という名のお茶をして帰り支度をしていた時だ。
「此処に黄という少女はいるかい?」
店先に現れた男に聞かれた。
服は藍色。
剣を帯刀していて武官の様子。
「藍将軍、ですか?」
「・・・君は?」
「私は・・・・・・ひゃっ!」
後ろからぐいっと抱きしめられて思わず声が出た。
「名乗るなら自分からだろう。全く、あたしに挨拶もなしかい?」
耳元に艶やかな声がして回された腕の持ち主が誰か知る。
「胡蝶・・・・。私は藍楸瑛。君が、黄君だね?」
にこりと笑いかけられてしまった。
「はい、私ですが・・・何か御用でしょうか」
「外の軒に人が待っている。私の事は胡蝶が保障してくれる筈だから一緒に来てもらえるかな?」
有無を言わさない言葉に胡蝶の柳眉が顰められる。
それさえも美しいのだから見事としか言いようもないことだが。
「藍将軍、あたしの娘を掻っ攫うなんていい度胸じゃあないかい?」
「詳しい説明はまたさせて貰うよ。早くしないとまた、彼が迷ってしまうかもしれないしね」
楸瑛の思わせぶりな言葉には苦笑した。
「胡蝶さん、私行かなくちゃいけないようです。知り合いが待ってるみたい。今日もありがとうございました」
仕事も終わらせていたからぺこりと挨拶して楸瑛の元へと行く。
「全く・・・いいかい?藍将軍にはよーく気をつけるんだよ!」
「酷いな」
肩を竦める姿にくすりと笑いを零して店を出る。
軒は店の軒下に止まっていた。
「遅い!」
開口一番に怒られては堪らない。
「お久しぶりです、李侍郎。ご健勝そうで何よりですが私は忙しく礼儀を知らない人とは微塵も付き合う暇などありませんので」
失礼しますと言って藍楸瑛様もご足労様でしたと挨拶をしていたら慌てたような声がかかった。
「違うっ!その・・・に言ったんじゃなくてだな・・・ともかく、すまなかった」
ごにょごにょと謝っているいつもは弱みを見せないような友人の姿に楸瑛は瞠目した。
「何の用なの?絳攸」
その慌てぶりに仕方ないと許してあげることにした。
絳攸は絳攸で李侍郎ではなくやっと名前で呼んで貰ったしかも苦笑とはいえ微笑みつきでというお許しを得てほっと胸を撫で下ろした。
女嫌いとなってから一時期に対して冷たい態度を取ったら倍くらい後悔した自分を思い出したのかもしれない。
「ふうん。絳攸も隅に置けないねえ」
ニヤニヤと笑っている楸瑛を無視して絳攸は口を開いた。
「仕事を頼みたい」
「お仕事?」
またしても恋人のふりだろうかと首を傾げる。
将来有望とわかった時の数々の縁談を振り切るために何度か雇われたのだが。
「外朝で働いてみないか」
答えは是以外持ち合わせていないことを絳攸も自身も十二分にわかっていたのだった。