やり遂げたいと望んだこと。
それは今のままでは叶わないとわかっているから。
今自分にできる精一杯を。
上を見ることなんてまだ出来ないから足元の石を一つずつ片付けて前を向こうと心に決めた。
「黎深様の所へそろそろ戻りますね」
一刻程いた戸部の尚書室の椅子から立ち上がった。
鳳珠様に説明もできたしとお茶器を片付けて帰り支度を始める。
「では、今日は少し遅くなるかもしれないから気をつけて帰るように」
いつもは良くて四割のペースの吏部がフル活動したのだ皺寄せとも言えるほど戸部にも仕事が増えていた。
「はい。ちゃんとご飯は食べてくださいね」
吏部に持っていく書翰はありませんか?というの言葉に天の助けとばかりに大量の書翰を手渡されたのだった。
「ふう。仕事なくなっちゃったなー」
いや探せばあるのだ。
料紙を補充したり墨を足したり書翰の書き損じを捨てたりする所謂雑用が。
なのに『君はもう休んでてくれていいよ!』と悪鬼・・・いや吏部に所属する官吏の皆さんに死にそうな笑顔で言われたら頷くしかない。
どうやら彼らとしては上司を操れる術を持つを扱き使って辞めます等と言われたくなかった様子である。
拝まれ言われたら礼を言うしかない。
「・・・折角お仕事できると思ったのに」
ぽつりと呟いたのはの本心だった。
沢山の墨の匂いと仕事に誇りを持つ官吏達の姿は悪鬼だろうが死人一歩手前だろうがにとって憧れ以外の何者でもない。
鳳珠様からお仕事任された時は嬉しかったなぁとぼんやり歩いていればふと見覚えのある風景。
「あれ・・・ここは・・・」
そういえば梅の季節に迷い込んだ場所・・・とはふらふらと庭に降りてとことこと奥まった場所にあるその建物へと歩いていった。
「こんなに奥だったんだあ」
侍童として半日というかもっと少ない時間駆けずり回っただけなのだが頭の中に地図はしっかり書き込まれている。
確かここは仙洞省と呼ばれる場所だ。
彩八仙しか立ち入れないと聞く風雅の高楼。
「この間の人は仙人さまだったのかなあ」
の頭の中では幼い頃見たテレビアニメのスケベな亀仙人くらいしかイメージになかったのだが。
「そこで何をしておる」
掛けられた声に振り向いて慌てて跪拝した。
侍童として外朝にいるは官吏でもなくはっきりいって身分は物凄く低い。
しかも女とばれたら大変だと今までバレなかった事を今更のように思っていた。
「私は本日より吏部尚書付きとして吏侍郎より任命されました黄と申します」
履物しか見えないが上等の沓だった。
「顔を上げよ。わしは聞いておらんが吏侍郎の目に適ったのなら構わん」
顔を上げれば深い英知を湛える双眸に気付く。
何処かであったような気がしてならない。
「あの、不躾な質問ですがよろしいでしょうかっ!?」
ふむと考えるように老官吏は口許を覆う長い髭を撫でた。
「不躾かわからんが応えられるものなら構わんが?」
その言葉に馬鹿げていると思いつつ口にする。
「あの、私と一度合間見えたことはないでしょうか・・・その・・・この塔の上にいたようなことは・・・」
最後は尻すぼみになってしまった。
大体あの時会った人は若かった。
けれど似ていると思ったのも確か。
塔の上にいた冷めた瞳の人。
その瞳に光る何処か気だるげな光は確かに同じ英知の輝きがあったのだから。
「・・・確かに不躾じゃな」
「す・・・すみませんっ」
慌てて謝るが続く言葉に絶句する。
「当たりじゃよ。黄」
「なっ・・・えっ・・・私の名前!?」
しまったと口を押さえるも遅かった。
詳しくはわしの部屋で話すかと言われて連れて行かれることになったのだった。
「あのー、ここはその、霄太師のお部屋では・・・」
恐る恐る地図で憶えた事を聞いて見たのだがあっさりと頷かれた。
「そうじゃ・・・自己紹介がまだじゃったの。わしの名は霄と言う」
「・・・びっくり、しました」
お茶入れますねとこぼこぼ茶を注ぐ姿に霄は些か不機嫌になった。
「もっと驚くかと思ったのだがな。若い娘ならキャーとか言ってみるものじゃよ」
「十分驚いてますけど。それで私にお話とはなんでしょう」
処罰ならば私だけにと言えば違うといわれた。
てっきり女だから処罰を受けるのだと思ったのに。
「前に言っただろう。随分待たされたから名前は自分で調べたがな」
いきなり変わった声に見やれば塔の上にいた人物がいた。
霄太師の姿がない。
・・・・という事は答えは一つ。
「お茶飲みませんか?」
「うむ、本当に面白いな」
目の前にいる年齢詐称人物に面白いと評されてしまったと喜んでいいのか悲しめばいいのかわからずはただ笑うことにした。
「あの時の饅頭が美味くてな。どうしてももう一度食べたかったのだが」
「梅饅頭ですか?今の季節は桜の方がよくないですか?」
首を傾げて尋ねれば桜も後々食べるがまずは梅だといわれた。
どうやら余程気に入ってくれたらしい。
「梅饅頭と梅の木の運命の出会いだしな」
「何かいいました?」
ぽそりと言われた言葉に聞き返すがいや何もいってないぞと言われれば追求するのも憚られた。
「作ってきますからその代わり内緒にしてくださいよ」
「わかっておる。そうじゃ、暇なときはわしの所に来んか?勉強を教えてやるぞ?」
老人姿に戻った霄太師に誘われたがは少しばかり考えた。
「嬉しいですけど友達に悪いですから」
秀麗の顔が浮かんだのだ。
今だってこっそり働いているのが心苦しい。
きっと本人は優しくいい機会だし頑張って来なさいと言ってはくれるだろうけど。
甘えてはならない部分もある。
「その甘さが命取りになるやも知れんぞ?」
「わかってます。けれど私にも譲れない部分がありますから」
今だって絳攸と鳳珠様が教えてくれてる。
聞けば黎深様だって教えてくれる。
それに自分で調べる事だってできる。
「霄様のお気持ちだけ頂きます。ありがとうございます」
今度梅饅頭お持ちしますねといらないと言われたが跪拝して立ち去った。
「振られたの」
「宋っ・・・鴛洵までっ!!覗き見かっ!!」
が立ち去った後ひょこりと覗いたのは宋太博と茶太保だった。
「あれが梅茶梅饅頭の娘か」
「若すぎじゃろ。色ボケたか」
若くなる事を知らない二人から散々に言われて霄太師はぼそっと言った。
「後で後悔するなよ」
後で悔やむから後悔なのだが二人が確かにこれでは恋に落ちるかもしれないと梅饅頭の美味さに舌を巻いたのは言うまでもない事だった。
「外朝って変な人が多いのね」
隣で悪戦苦闘する姿を眺めながら手際よく餡を包んでいく。
「お酒大好き管尚書にお洒落な欧陽侍郎に兄家族大好き黎深様に悪鬼巣窟の吏部に・・・仮面の鳳珠様の戸部・・・」
いけない、なんだか尊敬する大好きな父様が一番変に思える。
我に返って隣を見れば大変なことになっていた。
「絳攸ー!!どうしてお饅頭がまっ平ら!?もうちょっと厚みとか丸みとか出そうよ」
個性的といえば個性的だけどとお饅頭作りの先生となってしまったは評価した。
「何故上手くならないんだ・・・」
がくりと肩を落とす絳攸に慰める言葉も出ない。
というか吏部侍郎がこんな夕刻に帰宅して饅頭作りに精を出していいのだろうか?
話によると此処最近というか主上付きになって半月あまり暇を持て余していたらしい。
「まあお饅頭もお茶も黎深様はちゃんと食べて飲んで下さるのでしょう?愛されてるわよ、絳攸」
ぶつぶつ言っていた絳攸がピシっと止まった。
「あ・・・愛!?俺が・・・黎深様にっ!!」
「え、うん」
としては見たまま感じたままを言ったのだが。
大体、黎深様は興味ないものは路傍の石以下でぺんぺん草よりも視界に入らない人だ。
「絳攸は黎深様だから少しでも上達して美味しいものを差し上げたいと思うのでしょう?」
の言葉に頷いてしゃがみ込んでいた絳攸は視線を上げて思ったよりも近い場所にある少女の笑顔に慌てる。
「あ・・・俺は、そうだっ!府庫に行かねばならなかったんだっ!!」
約束した時間より全く早かったのだけど。
慌てて出て行く後姿をぽかんと見送りながら残されていた平べったいお饅頭を忘れている絳攸を慌てて追いかけたのだった。
少女の夢はまだ蜃気楼のようなもの。
けれどいつか、泡沫の泡でなく花開く時を夢見て一歩ずつ歩み始めた。
これからが本当の物語の始まり。