それは貴陽に朝靄がかかる早朝のこと。
「我が片翼、暫しの別れだ。君は君の道を進めばいい」
共に旅に出れないのは残念だが私は邪魔はしないし邪魔をする者がいれば君の頼みなら排する事も手伝おう。
そう言い放つ様は何者にも曲げられないものを感じさせてはいたが瞳の奥に浮んだ僅かな、ほんの僅かな揺らぎは歳相応の青年に見えた。
青年はいつだって『藍龍蓮』であり続けていたけれど。
そんな優しい彼に大丈夫と少女は笑った。
だってこの道を選んだのは私だから、と。
しなやかな少女の強さに頼もしさと僅かな寂しさを天つ才に生まれた故に気付かないままに貴陽を嵐に巻き込んだ青年は怪音ともに旅立ったのだった。
抜けるような青い昊がその奉天殿の外には広がっていた。
「一躍、有名人になってしまったのね、秀麗と影月君・・・」
ほうっと溜息を吐くのは黄である。
秀麗達とは離れた位置にいるが彼女の周りには人はいない。
いや、いるのだが隣、四人分くらいは開いているのだ。
それは少女の格好に問題があった。
「おい、アレって黄尚書の?」
先輩官吏のひそひそと囁く言葉通りであった。
の顔には黎深が贈った仮面が燦然と付けられていた。
まるでモーゼの十戒のようだと幼い頃に見た映像を思い起こす。
この世界に来る前。
鳳珠様に出会う前の昔の事を。
「おい。主上の御前だ、そんな不敬なものをいつまで付けている気か」
一人の官吏の言葉はしごく最もだったがそれも鶴の一声であっさりと消え去る。
「すまんのう。それは私が付けるようにと言ったんじゃ」
むろん、主上も知っておると言うのは霄太師である。
は無言で跪拝した。
その挙措は完璧であり仮面さえなければ普通であると注意しかけた官吏が思うほどであった。
けれど仮面をしているから台無しなのは変わらないのだが。
「霄太師と主上が良いというのでしたら・・・」
渋々といった風な様子ではあったが納得したのだった。
「さて、この貸しは月見団子かのう」
に聞こえる程度の小声で呟いて嬉しそうに笑う霄にが仮面の下で微苦笑して小さく頷いたのだった。
ざわり
上位三名が名を呼ばれる前からその場はざわめいていた。
庭院先にならんだ最前列。
及第者の上位三名が例年にないほどの若輩であり二位の者が一名欠席。
そして三位は女。
その上。
「・・・二位が二名で一人が欠席、一人が仮面・・・だと・・・」
は影月と秀麗の隣にいた。
名をと変えて。
その二人もの仮面には驚いていたようだったが何も言わずそのままだった。
聡い彼らだから大丈夫だろうと思いつつは仮面の下から視線を向けた。
主上はただ真っ直ぐに秀麗を見ていた。
ちらりと見た義父の様子にはしまったかもと思いつつもこれは仕方ないと視線をずらす。
これまた秀麗しか見ていなかった黎深がの視線に気付いたらしい。
ひらひらと小さく扇を振ってくれた彼に笑みを浮かべた。
男装しているが女だと知っているのは極僅かな朝廷の一部と試験中にと関わった者だけである。
「・・・動きやすくなるためだから」
多分、風当たりが一段と酷くなるであろう秀麗に心の中で謝りつつも自らのすべき事を思って真っ直ぐに前を向いたのだった。
「どういうつもりなんだ」
怒った顔で物陰に引き込まれては仮面の下で苦笑した。
名を呼ばれた時、いやそれ以前にびっくりしていたのは分かっていたけれどそれでもこういう反応をするとは思わなかった。
「絳攸?」
「・・・!」
触れそうなくらい近くにいたのにいきなり真っ赤になって逃げてしまった相手に仕方ないと仮面を外した。
「私、したい事があるの」
それ故の男装。
それ故の仮面。
という偽名。
全ては思惑の中にある。
「・・・仮面を良く主上と霄太師が許可したな」
「蛇の道は蛇っていうから」
にこりと笑う姿は変わってない事に安堵して絳攸は少女に告げた。
「まあ仮面はいい。それより、だ。いいか、男と二人きりには極力ならないようにするんだぞ」
釘を刺している姿には鉄壁の理性の欠片もない。
仮面着用許可を得たは嬉しそうに笑ったのだった。
「確かにあの仮面を付けて性別不明でいた方が君の恋敵は増えないよね、絳攸」
そんな姿をしっかりちゃっかり楸瑛に目撃されていたりした絳攸はこれから後暫くからかわれたりもするのだが。
「黄進士、あのような輩と付き合えば黄家の名を汚しますぞ」
その言葉に仮面の下でムッとする。
確かに黄家には感謝している。
けれど一番に思うのはまた別だった。
大事な大事なもの。
「黄殿、その歳で榜眼及第とは素晴らしい才能ですな」
向けられてくるあからさまな賛辞はさらりとかわし並々と注がれた杯を口に含みその後に口元を拭く振りをする。
全ての酒を飲めるわけもなくほとんどが手元の布へと吸収されていることに対してもったいないと思わないでもないが。
「ささ、私の娘は器量も心栄えも良く・・・」
続く言葉にも笑顔で曖昧に流していく。
こういう相手は?娥楼で何人も見ているからか容易い。
きっぱり断りたいものだと思いながらもそれは出来ない。
相手の顔を潰す行為ととられては動けなくなるために。
「夜も更けました。私も義父が心配します故・・・」
辞する言葉に相手は留めようとするが若輩者なので仕事に差しさわりがあると困ると言って難を逃れた。
「・・・全く・・・しつこい相手・・・」
軒の中でウンザリした溜息を漏らしつつは食い付いた相手をどう料理するかと考えだしたのだった。