蒼く透明な夜が流れ出していく
春の足音が聞こえてくるような夜だった。
闇夜に煌々と光を放つ月は蒼白くどこか死のような冷たさを持っていた。
月の光を浴びると不吉なことが起きる。
そう昔の人々が信じて疑わなかったのはきっとその禍々しいまでの美しさに魅入られることを恐れたのかもしれない。
靴を脱ぎ捨てた素足に踏みしめられた大地は少し湿っていて昼過ぎに降った雨の匂いがした。
足が汚れるのも構わず少女は靴も靴下もローブさえも脱ぎ捨てて歩いた。
段々と速度を増して行き少し小高い丘の上まで終いには駆けていく。
ローブの下には薄い白のワンピースを着ていたのだがもし誰かに見咎められていたら幽霊かもしくは妖精の類かと思われるような光景だった。
丘の上には一本の木が植えられていた。
冴え冴えとした月明かりの元見上げれば薄紅色の花が歓迎するかのようにはらはらと舞い散る。
少女の腕でも届かないほどの巨木は何年も前の卒業生の一人が故郷を偲んで植えたという桜の木でホグワーツの結界を跨ぐ形で生えていた。
手のひらで木の幹を触れれば桜の鼓動が聞こえてくるような気がした。
トクトクと自らの中を巡る血流のようにこの桜にも水や土の養分が血管のような管を通り根から蕾まで行渡らせているのだ。
その証拠に少し高い位置には蕾が咲き綻び次の春の嵐が来れば瞬く間に花は散ってしまうだろう。
木の根元に腰掛けて桜の花の間から月を眺める。
黒い闇でなく藍色の夜が月の周りを彩り星達が少しだけ小さく瞬く。
口をついて出たのは古い古い唄で意味もよくわからないけれど耳に残る旋律が切ないもの。
遠い昔に誰かが歌ってくれたそれをふいに思い出す。
あれは母親、それとも祖母だったろうか?
星の光を紡いで糸にしよう
愛しい貴方に服を織ろう
夜の闇にに囚われた私はただ泣くばかり
檻はゆらゆらと揺れて
貴方の声を聞かせるけれど
私の心は届かない
ひらひらと幾重にも落ちてくる花びらに埋もれて人知れず死んでしまいたい。
不意に浮かぶ衝動はこの夜が作り出す幻想。
薄紅の花に埋もれて白い服を血で染めて誰も気づかれないまま桜の贄になってしまおうか。
残酷なまでの感情が噴き出してくる。
いつの間にか強く握り締めていた手のひらを解いて土に爪を立てた。
ジリと爪に痛みが走る。
きっと爪の間に土が入り血が滲んでいることだろう。
痛みだけが私を沈めてくれる。
背中にかかる黒髪がふいの風で花びらと共に舞い上がった。
ふと見れば誰かの影があることに気づく。
「こんばんは」
今まで死のうと思っていた人間の挨拶としてはなんて一般的過ぎるだろうと笑いたくなる。
影の持ち主は影のような男だった。
身を包む全てが黒一色で月明かりに垣間見えた髪さえ黒い。
「貴方は誰です?」
そっと闇に溶けそうな男に問う。
「・・・・もう一度歌ってくれないか?」
問いが聞こえなかったような言葉に些か気分を害しつつもその言葉の中に何処か切望するような響きを感じ取って頷いた。
月の光を針にしよう
愛しい貴方に服を作ろう
桜の闇に囚われた私は朽ちていくばかり
花を咲かせていくけれど
貴方に声は届かない
私の心は届かない
「・・・・感謝する」
その言葉が聞こえた瞬間ふわりと視界に広がる桜の花・花・花。
そして遠くなる蒼い闇。
何故だか泣きたいほどに切なくなって手を伸ばしたけれどその男はいなくなっていた。
少女はぼうっと蒼い月の光に照らされた桜を見上げつつ止まらない涙を流していた。